早いもので、2024年最後のコラムです。いくつかでも読んでくださった“あなた”、本当にありがとうございました。わずかでもお役に立てましたでしょうか。
書いている“ぼく”も、読んでくださるあなたも、きっと人生の中で多くの挫折を経験してきたと思います。
そんなとき、どうやってもう一度立ち上がるのか。
今回は親サイトとも言うべき『ジョブリット』が扱う転職・転職とはあまり関連しませんが、ぼくが大好きな「落語」の世界を例に出して、挫折からの回復方法を考えてみたいと思います。
とはいえ、テーマに落語を使うんですから、堅い話ではありません。
「今年ダメだったとしても、来年がんばればいいじゃない」
そんなゆるいイメージで、帰省の電車内の暇つぶしくらいの感覚でお読みいただければ幸いです。
ぼくのアイドル・三代目 古今亭志ん朝さん
何度か、ぼくが個人的に心酔している著名人、芸能人をコラムに取り上げたことがあります。音楽家のKANさんだったり、名言を取り上げた藤井フミヤさんやロイ・キーンさん、イチローさんなどなど。
いつもながら勝手に、ではありますが、今回ご紹介するのは、1970年代から90年代に落語の世界で大活躍した、昭和・平成を代表する落語家。三代目 古今亭志ん朝(ここんてい・しんちょう)さんです。
とはいえ、お若い方で落語家さんに詳しいとなると、ほとんどいないかもしれません。テレビ番組『笑点』に出演されていた桂歌丸(かつら・うたまる)さんや六代目 三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく。紫の着物を着ていた、通称“腹黒”)さんはかろうじて……という方が多いのが実情かとも思います。
でもね、落語って本当にいいものなんですよ。
落語の何がいい?
ちょっと本題とずれますが、ここだけは書いておきたいです。
落語ってね、難しく考える必要がないんです。適当に聞いて、適当に笑って、適当にしんみりして、適当に江戸時代や明治時代にタイムスリップした気分になる。そんな話芸なんです。
要するに、ぼくが思う落語の良さって「適当」ってところなんですよ。
ぼく自身、映画も好きです。でも、映画って多少なり気合を入れて、2~3時間、集中して観るものじゃないですか。
でも、落語なら準備も心構えもいりません。長い話だと1時間くらいのものもありますが、基本的には15~30分程度ですから。
しかも現代だとそれをYouTubeでかんたんに見れる/聞けるんだから、ありがたいですねえ。
もともと、寄席(よせ。落語をはじめ、演芸を開催する会場のこと)って気楽に入れるものだったんでしょうけど、伝統芸能化した今はちょっと敷居が高い感じもしちゃいます。
手軽さという意味で、YouTubeに優るものはありません。
最初に誰を聞くかで印象が変わる!
落語を知らない人に対して、いちばん大事なのは、最初に「誰」の落語を聞くかだと思うんです。
最初に聞いたものがつまらない、もしくはぴんとこない。そうなると多分、もう二度と聞くことはないと思いますから。
じゃあ、誰をおすすめするべきか。
本当はここでも古今亭志ん朝さんを推したいです。でも、江戸弁とか江戸後期~明治初期の文化・風習を知らないと、もしかすると難しく感じちゃうかもしれないとも思います。
(おじいちゃんと一緒に時代劇を見てた! とか、歴史の授業が好きだった! みたいな人は迷わず古今亭志ん朝さんからスタートしてください)
今、令和の時代にご活躍されている現役の落語家さんで個人的におすすめしたいのは、柳亭小痴楽(りゅうてい・こちらく)さんか、三遊亭満橘(さんゆうてい・まんきつ)さんでしょうか。三遊亭だと兼好(けんこう)さんもいいですね。あ、『笑点』にもご出演されている桂宮治(かつら・みやじ)さんも捨てがたいかな。
あとは落語ではなく講談ですが、六代目 神田伯山(かんだ・はくざん)さん。この方はテレビやラジオにも頻繁にご出演されているので、ご存じの方も多いかもしれません。ただ、近年の伯山さんよりも、“松之丞(まつのじょう)”時代のほうがよりライトですから、最初はそちらがいいかなと思います。
ここでお名前を挙げた方々は本当に超一流で、かつポップなセンスをお持ちですから、ぜひYouTubeで動画を探してみてください!
昭和の名人の息子にして、歴代最高の落語家・志ん朝
さて、本題に戻ります。
今回取り上げる、三代目 古今亭志ん朝さん。実はこの方、五代目 古今亭志ん生(しんしょう)さんの息子さんなんですが、お父様も落語家として超一流だったんです。なにせ今より娯楽が少なく落語の地位が高かった時代に、「昭和の名人」の名を欲しいままにしておられたくらいですから。
ただ、親が偉大だからといって、子どもも上手くいくとは限らない。それが芸の道の常識なんですよ。でもね、志ん朝さんは違いました。入門直後から落語の上手さを評価され、通常では15年程度かかる真打(しんうち。落語の世界の最高階級)に、なんとたった5年3カ月で上り詰めてしまいました。
しかも、志ん朝さんは人間的にも誠実な方だったようです。普通、お父さんが業界の超大物なんですから、多少なり偉そうにしたりしちゃうもの。でも、そういったところは一切なかったんだとか。
むしろ、他の方が気づかない細かいところにも目が行き届くから、先輩・後輩関係なく尊敬されていたとのこと。
人間性が芸に反映されるという意味の「芸は人なり」。まさしくそんな大名人でした。
ぜひとも政治家さんに見習っていただきたいものですね。
志ん朝さんの人生で最大の挫折
芸も上手で、人にも愛され、人気もうなぎ登り。順風満帆な落語家人生を歩んでいた志ん朝さんが波乱に巻き込まれたのが、1978(昭和53)年に起きた、落語協会分裂騒動。
当時、東京の落語家さんを統括する協会は落語協会と落語芸術協会の2つ。そのうちの1つにして最大派閥だった落語協会が、真打昇進についての意見の相違から分裂してしまった悲しい事件です。
このとき、志ん朝さんは分裂側にいたんですよ。真打とは落語家にとって最大の目標なのだから、実力のある者だけがなるべきだ。キャリアを重ねたからといって、年功序列的に昇進させるのはおかしい。志を共にするメンバーと新団体を立ち上げて、そこで弟子たちを一人前の落語家に育てるんだ。
このときの志ん朝さんは、理想と夢に燃えておられたことでしょう。
しかし、東京にある4つの寄席すべてから猛反対を受け断念。新団体のメンバーは寄席に出られないことを通告されます。
これでは弟子を育てることができないと悟った志ん朝さんは、一度は離脱を決意した落語協会への出戻りを決めました。
その謝罪会見で志ん朝さんが発した言葉がこちら。
「これからは芸で勝負する」
これが運も実力も人望もすべてを兼ね備えた志ん朝さんにとって最大の挫折でした。
志ん朝さんが落語協会を飛び出した理由とロジック
志ん朝さんには飛び抜けた実力があり、人望も篤い。だから、周囲と協力して新団体を立ち上げさえすれば、あとは自分の実力でお客様を集められる。たくさんのお客様の前で演じれば、弟子も育っていくはず。そう思っていたのではないでしょうか。
これ自体は、何一つ間違っていません。もし立ち上げに成功していたら、そして寄席が賛成してくれていれば、事実としてそうなったでしょう。理想論の現実化という意味で、とても正しい。
でもね、世の中って一方から見ただけでは本当のことなんてわかりません。
当然、落語協会にだって、協会なりのロジックがあったんですよ。そして大事なことは、それに賛成する落語家さんのほうが多かったという事実もあるわけです。
そこを無理やり変えようとすれば乱暴ですよね。でも、志ん朝さんはそんな手段は選びません。代わりに、自分たちの理想を追求できる環境を作ろうとしました。
偉いですよね。シンプルに、筋が通っています。
志ん朝さんの弱点
しかし、(これは志ん朝さんのせいではないのですが)やり方が悪かった。準備が甘すぎて、新団体を立ち上げる前に敗北してしまいました。
もし、志ん朝さんに弱点があるとしたら、政治力のなさだと思います。
良し悪しは別にして、きれいごとだけで政治はできません。事前の根回しや、敵の敵を味方にするようなずる賢さが必要です。
育ちの良さゆえでしょうかね。志ん朝さんにそういったことはできません。理想だけを追い求めて、自分たちだけの理論で動いてしまった。
よく言えば純粋、悪く言えば子どもっぽい。
でも、そんな志ん朝さんだから、たくさんの方から愛されたんですけどね。
この事件の反省からか、志ん朝さんはこれ以降、政治とは無縁の場所にい続けました。落語協会でも大きな役職に就いたのは、晩年の副会長だけ。常にお客様の前で「芸」を見せる、生粋の芸人として生きました。
志ん朝さんの「芸」とは?
志ん朝さんは「芸で勝負する」という自分の言葉を、決して裏切りませんでした。
小気味のいい江戸弁で繰り出される志ん朝さんの落語からは、江戸の匂いが漂います。
当然ですけど、江戸時代のことなんて知りませんよ。でも志ん朝さんの落語中は、江戸時代が“長らく帰省していない生まれ故郷”くらいの距離感に思えるようになるんです。
こんな落語家は、志ん朝さんしか知りません。
同時に、志ん朝さんはスピード感もすごいんです。これはご本人が「今の若い人たちの会話のテンポに合わせたらこうなった」とおっしゃっていました。
古典落語というのは、かんたんに言えば昔話です。そんな話ばかりしていると、下手をすると「昔が最高! それに比べて今は…」となりかねません。
でも、志ん朝さんは落語を大衆芸能と捉えて、「今」の人たちに届けてくれました。
しかも、志ん朝さんは滑舌も抜群にいいんです。だから早口でも聞き取りやすい。すばらしいの一言しかありません。
そして伝説の落語家に…
志ん朝さんが肝臓がんに倒れたのは2001(平成13)年のこと。63歳。短すぎる人生だったと言うほかありません。
亡くなられてからもう20年以上。それでも、今も落語ファンに「最高の落語家は?」と聞けば、多くの方が「そりゃあ、志ん朝だろ」と返します。
では、現代の落語ファンに「伝説の落語家は?」と聞いたとしましょう。それならおそらく、三遊亭圓朝(えんちょう)の名前が返ってくるはずです。
江戸後期~明治時代の落語家なので誰も彼の落語を聞いてません。でも、数多くの逸話と共に、圓朝の名前は残っています。まさに伝説です。
圓朝が亡くなったのは1900年とのことですから、約120年前。
これからあと120年くらい経った2150年に落語という芸能が残っていれば、志ん朝さんは圓朝と並ぶ伝説的な存在として語られていると思っています。
志ん朝さんから学ぶこと
最後に、本題です。志ん朝さんから学ぶ、挫折の乗り越え方とはなんなのか。
志ん朝さんが「芸で勝負する」と言ったのには、2つの意味があるとぼくは思っています。
1つは、芸人としての基本に立ち返ること。芸でお金をもらうから、芸人なのです。
志ん朝の芸は、落語。落語をしっかり演じる。お客様に笑ってもらったり、懐かしんでもらう。そんな初心に戻るという意思表示だったのではないでしょうか。
そしてもう1つ。もう負けたくない。これからは絶対に勝てる場所で闘う。そんな意味もあったのではないかと思うのです。
同時期の落語家には実力・知名度ともに高いスターが揃っていました。“人間国宝”にまでなった柳家小三治(やなぎや・こさんじ)にはじまり立川談志(たてかわ・だんし)、五代目 三遊亭圓楽(えんらく。2006年まで笑点の司会者。紫色の着物を着た“腹黒”円楽さんの師匠)、桂歌丸などなど。
でも、志ん朝さんは芸なら絶対に負けないという自信があったのではないでしょうか。
挫折を乗り越えるには、勝つしかない。結果を残して、払拭するしかない。
逆説的に、勝つために勝てる場所で勝負する。
ぼくはそれを志ん朝さんから学びました。
まとめ:負けを認めて、最後に勝てばいい
今回は古今亭志ん朝さんの素晴らしさ、そして挫折の乗り越え方をお伝えしたいと思い、こんなコラムとなりました。
最後は、個人的に落語初心者の方におすすめしたい志ん朝さんの演目を紹介します。本当に気楽な気持ちで、YouTubeで検索してみてください。
「五人廻し(ごにんまわし)」
「火焔太鼓(かえんだいこ)」
「四段目(よんだんめ)」
「鰻の幇間(うなぎのたいこ)」
「崇徳院(すとくいん)」
ほっとくといくらでも出てきてしまうので、このくらいにしておきます。ちなみに、順番はそのままおすすめ度というか、ぼくが好きな順番です。ただ落語を初めて聞く方に分かりやすいのは、「崇徳院」かなとも思います。
志ん朝さんは落語家として一度だけ「芸」以外の勝負をしました。その先には、まさかの始まる前に負けるという無残な結果が待っていました。
しかし、志ん朝さんは素直に負けを認めました。そのうえで、芸で勝負をすると決め、報道陣の前で公言し、実践し、そして伝説的な結果を残しました。
挫折の乗り越え方として、これほどすばらしいお手本はいないと思います。
2024年ももうすぐ終わります。今年、くやしい思いをした方、ぜひ志ん朝さんを参考に2025年に逆転してください。
とはいえ、がんばりすぎると大変ですからね。志ん朝さんの落語でも聴きながら、のんびり気楽にいきましょう。
ちなみに、実は今回のコラムが39本目でした。たまたまではありますが、気づいてしまった以上、この言葉で本年のコラムを閉じるしかありませんね。
2024年、大変お世話になりました。ありがとうございました。
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